20101004

cero

無善寺でみたceroになんかやられている。
ずるずるずっと考えている。


その日彼らはいつものコンテンポラリーとかゆうカンジを無視するかのように
あると思っていたスティールパンは無く、管も無く、トリプルギターでロックを奏で出し
いつもの曲が完全にカスタマイズされていた。
珍しいことではないんだよな。
ceroは観るたび今日のことをするし最近はそうゆうのが顕著だし


ただなんかみせつけられた。
でもその前にただわーってさせられてさ。
面白いんだもん。


ceroって別に頭で考えてないと思うんだよなー
彼ら程 下品なくらい貪欲に楽曲に取り組んでるバンドってそういない気がする
まさに貪り欲しているよね
それを狙ってるみたいに思うかもしれないけど
狙いってあたりまえにあるべきだし


彼らの自由さと、その自由を体現できる能力というのはほんとに恐ろしい。
そうゆうのやれてしまうと緻密になっていくかもしれないけど、でもがさがさした部分も確実にある。
だからceroって全然ライブバンドって感じではないのに、
ライブを観る面白さが実はもの凄くあるんだな。
それはこっちの勝手で、そのへんは多分全然狙ってないんだろうけど。
だからなんかそこまで心に届かないライブの日もあったとしても、
今回のような時には素直にぎゃふんと言いたい。
しかも私はceroは心で聴かない。
体感だと思う。
ceroはバンドというよりは現象みたい。


特に無善寺みたいな場所では
ceroのような音楽は鼻についたりもするかもしれない。
だけども、ceroはどーゆうロックとかパンクとかそうゆうのより、もの凄く破壊的で攻撃的だと思うよ。
ピースフルな予定調和が無いもんな。
書いてて怖い。
そうゆうのがいいとか悪いとか
どうゆうのが好きかとかよりも
彼らの現象が無二であるというところに私は魅力を感じる。


これって、これから彼らの音楽が世に知られて行くうえで特に必要のない見解だと思うけど
なんかちょっとショック受けちゃったので書いた。
ショックだったからこそ、考えたこと。

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