20100928

東京の演奏について

何回も言ってるのかもしれないけど
東京の演奏はイベントの名前ではないという考えでずっといました。
もともと 東京の演奏という言葉は 私にとっての東京の音楽、東京で観るライブのことで
東京の代表とかそうゆう意味ではなかった。
あのー私は田舎者なので、東京で数々の素晴らしいライブを観れることが嬉しくて
東京にしかない場所で、東京という街を背景に奏でられる数々の小さな音楽がとても貴く感じられ、
それに今じぶんが東京にて出逢えるていることが貴く感じられ、
ささやかな気分でつけたタイトルでした。


高城くんが東演さんという言い方を始めてから、私=とーえん(だいたいが威圧的なあいさつなどに使われるが)と呼ばれたりもするのだが(だいたいそれはcero関係にしか言われないが)
なんというか
カジメラの企画をやってみて、改めて
とーえんはやっぱりイベントとかブログとかじゃなくてもっと概念的なものなんだなと思う。
東京の演奏なんて偉そうな名前だとか思われてるのかもしれないし、そんなん聞いたことも無いひとがほとんどだし、
名前変えてもいいとはいつも思うし。
私はずっと東京の演奏は自分からみた別の世界、音楽をしているひとたちのことだという意識があったかもしれない。
でも東京の演奏はあくまで私の思考の中にある。
残念なことに実体なんてない。
ただ私が「考えてきたこと」なだけだ。


ただ、それでも、実体がなくても、私が「考えてきたこと」で、動かなかったはずのものが動いていることがある。それが何なのか言えるわけではなくて、何の足しになってるのかも提示できるわけではないんだけど、少なくとも私の人生は動いてると言える。
結局お前のことかよっていう話だけど
私は音楽でこれだけ楽しめるんだっていうことだ。
音楽に関わるだけでこんなに人生を変えられたなら楽しめたなら充分な体現であり提示じゃないかということだ。
私は東京の演奏という言葉を使ってから、誰よりもって言えるくらいに感動や感謝を味わっている。
苦しいことも悔しいこともちゃんと。
こないだのカジメラでは、自分が演奏をしたことどうのよりも、「音楽に関わってきたこと」を感じた。
「東京の演奏」はきっとそういうものなんだと思った。
私は素晴らしい東京の演奏を知っているし、それをしている人たちは面白いということも知っている。
みんなが生きながら音楽をしていることも知っている。
そういうものから生まれた感覚のすべてが東京の演奏で、それでいいんだと思う。


私に関わることはその程度のことだと言いたい。
私はみんなを有名にすることはできないし、得を与えることはできない。影響力なんかこれっぽっちもない。
ずっとそのことをコンプレックスに思っていたけど、できないものはできないと今は言える。
もちろんみんなが売れたらいいと思うんだけど、それと東演は別のはなしなんだ。
その別のはなしっていうのは、「売れる」とかよりも私にとってはもっと大きいことで、それを掴めるのかはわからないけど。
私だって報われたいとは思うけど、それが前提ではない。


こうゆうの、ここに書く必要があったのかわからないことだ。
私はすぐに忘れてしまうし、やめたくなることも何度もあった。
忘れないように書いとこう。
いつだってもうやめたいよ。
でもこう考えるととーえんなんてあってないようなものだからやめるもやめないもないし。
「あってないようなもの」ってなんて自由なんだろうー
とーえんはおばけみたいなものだね。
おばけがみえるかみえないかはその人次第だ。

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